昭和42年03月06日 朝の御理解
御祈念をさせて頂くと言うこと、祈るということ。これは、神様と私共の、唯一の手がかりとでも申しましょうか。心の交流の第一のものだと思うのです。それ程に御祈念は大事にしなければいけません。皆さんが、椛目だけのことではありません。自分のお家で、本当に一人静かに、御神前に出れて、今度、私、御本部へ何日も、ああしておかげ頂いておりましたが、控え所に参りましてから。
一番に、二階にお神様がお祭りしてございますから、参りましたら、もうそれこそ、神様の内殿が、もうそれこそ何時お掃除したやら分らん様にして、お榊は両方に上がっておりますけども、本当にそれこそ、枯れ上がってしまって中にお水が入ってないのです。やあ、毎月先生方の中にも、信者の中にも、月参りやらをしよる人がありますのにね。もう、初代の親先生のお写真というのは、もうこんな具合になってですね。
本当にまるっきり、人のいない家の様な状態なんですよね。例えばです、これは相済いませんという、私共の気持ちは出るけれども。これで神様と交流しょうといったて出来ることじゃないですね。私は早速久富さんに申しましてから、お掃除をして頂いて、お榊を買うて来て貰うて、それで綺麗にお掃除させて頂いた。本当にもうそこからですね、交流する一つの手がかりが出来るですね。神様と通う手掛かりが出来る。
お灯りでも赤々と上げさせて貰うて、御祈念をさせて頂いとりますとですね、確かに、暑いもなからなければ、寒いもないという気持ち。神様と交流する時にはそれなんです。それはどういうことかというと、私共がもうあちらへ参りましてから、もう一時の時間もございませんでした。試験が八時半から始まるんですよ、それに四時のお出ましを拝まして貰うでしょう、帰ってまいりますともうすぐ勉強お食事。
もう八時半ですから、八時には、あちらへ行っとかなければならん。それから一時半、二時頃迄試験がぶっ通しに十分ずつに休んで、四科目ございますんです。帰ってまいりますと、もう学院生が、誰か訪ねてきとるですね。私共は、いうならば、青年が行きわっとるですね。今度、弘子さんと、末永さんが行っとりますもんですから、ぜひ一辺、会いたい、お話が聞きたいという学院生の方達が尋ねてきてるんです。
それで、その方達に、場合には、お菓子を出したり、場合にはお酒を出したりせんなりませんしね。テゴありますでしょうが、内田さんが、ご承知の様に行っとられます。それで、ですから、もう本当に試験勉強さして頂くのは、みんなが帰ってからですから、十一時頃からです。それからまぁ、少なくとも二時間か、三時間か高橋さんが、ずうっともう、次の日の試験の事を、高橋さんが試験受けられる様なもんでした。
あっちがずうっと勉強してありました。それからさぁ先生明日は何と何と何の科目ですよとうわけでですね。それから勉強するそれは出来ん事はないのですけどもですね、ちゃんとそのしといてから答えを出していて貰うのですね。それで私達あぁそれは違います、ここはこうですあぁですと特に社会問題なんか、全然私が駄目なもんですからそれこそ本当にまあようこそ高橋さんでなからなければ出来ないと言う位なんです。
それでその一科目一科目を、とにかく三十分多いのに、一科目も二時間も、やっぱしなければならんのがあるのですよね。それを仕上げなければ、休まないのです。ですから本当いうたら、くたくたに疲れるという所でしょうね。ですから時間があったら親先生、しばらくでもお休み下さいという訳ですから、もう強引にこう休ませられる。そすと時間がきたら起こされる。
そしてからさぁ勉強ですよ。けれども私は思うのですけども、大体が自分の好きな勉強ばぁっかりでしょうが。例えば教祖伝とか教義とかそのという、とにかく信心に関してばっかりのお勉強ですから苦にならないんです。あの一番最後に面接に偉い先生方が十何人、専嘗、教官、学院長それに教頭、四国の大変お徳を受けた先生方が、ずらぁっと十何人並ばれてあの広間で、一人一人の面接があるんですよ。
時にどの先生でも一番口に言うて下さるのが、あのお体の方はどうですかと言う事なんです。それから御造営の方はどうですかと、私はそれが行き渡っておるのに、私は驚きました。とにかく何を致しますにしても体が元ですから、体を結局大事にして下さい、大事にして下さいと言うてから、皆が大事に言うて下さるんです。でしたがそのある先生が、本当に試験ぐらい嫌なものはないもんですもんね、お疲れだったでしょう。
三日間もぶっ続けでございましたから、それに私は、今度全国からの受験生が私共に四名でした。私は本当に検定なんかという様なものを受けさせまいとなさる訳が分かりましたですね。たった四名のためにですね。もうあれだけ沢山の先生方を動員しなさらなきゃならない。あの問題を作るだけでも大した事だったと思うです。最後に午後からの一時間、一時間半の受験というのは、私一人のためなんです。
それは私が昔の中学、今のいうなら高校を出とりませんから、高校出たり大学出たりした人はもう、受んでも良い科目なんですよ。金光様の先生になるからには、もう特に検定でも受けるからにはですね、高校の学力を持っとらなければ、受けさせないというのが建て前なんです。ですからそれ受けるのは私一人です。そのために、先生が試験官の先生が付きっ切りであり、問題を作りなさる方。
もうそのそれに関係してられる先生方がついて下さるのですから、もう本当に恐れ入ってしまいます、恐縮致しましたんです。ですけれども実に楽しいんです私は。皆んなが帰って参りましてから、私があんまり疲れておらんので、びっくりしとりますけれども。かえって元気になって帰って来たという感じです。只然し目だけは昨日、壮年部会がありましたけれどももう眠っとる様な、お話聞きながら眠っとるです。
ぐらいにやはり疲れてはおるですけれども、楽しいんですね。それで話が横道にそれましたですけれども。祈るということによって、神様と私共が交流するということはですね。例えばそういう眠いとか、きついとかという時でもですね、御神前に額ずいたら、三十分か一時間は動かれんというのが本当でなからなければ嘘だと思うですね。ですから神様とですね、こうやって通い出しましたらです。
それが信心の一番の有難い境地だとこう思うですよね。神様の前に額ずいてから、悪かごつどん思われんという様な意味です。と言うて皆さん御祈念しておる時に、悪いことが思われんとか、汚いことやらが頭の中に浮かんでこんという、そういう意味じゃないです。もうそれが出てくるほど有難いのですから。けれどもそれが神様と交流しよる証拠なんですから。お詫びならお詫びでもです。
ですから、その拝まして頂く、その対象であるところの神様の前にです。先ほど申しました様に、例えばお榊は枯れ上がってござる、てんでもうネズミの三宝踏んだごと内殿がしておる。お神様はこっち向いてござると言った様なですね、前で御祈念が出来る筈はないです。本当に清めた上にも清めさして貰い、明々とおろうそくを燃やし立てさせて頂いてです、お榊は生き生きとしてです。
そういう前に座らして頂いて、心ゆくまで御祈念をする。そこに神様との交流が始まる。そこにはです眠い寒い、冷たいというものはないです。それがその信心の程度によってですね、信心の程度によって違います。それはなるほど神様の前にポンポンと拍手を打って休ませてもらいます。おかげ頂きました。これもないよりはましです。けれども、私は本当に信心を頂きたいと思うならですね。
この心ゆくまでの御祈念というものがなされなかったら、私は駄目だと思うですね。本当の信心が分かるはずないです。これはもうあらゆる信仰の中に、この祈るということがない宗教というものは先ずないです。ですからこの祈りを大事にしなければいけんです。そして祈らせて頂いて神様と交流する、その有難いというものはです、いかに一日照らさん様に消やさん様にするかというところに、信心生活があるのですよ。
皆さんが大祓いをなさる御祈念をなさる、御理解を頂きなさる。なるほどなるほどと自分の心の中に感じることをです、その有難いと思い、成程と思う事をです。消やさんように絶たん様に、精進努力することが信心生活なんです。ところが私共は我情であり我欲でありが出て参りますから、確かに有難かったはずの成程と思うておったことまでが、何処えやら行ってしまうというのが、私共の通常ですけれども。
それは私自身がそういう有難いです。そんなら御本部なら、御本部のああいう金光様に毎日お目にかかって、毎日奥城に出らせて頂いて、有難いのですけれども、その間にですね。試験に追いまくられとる間にですね。何とはなしに椛目に座っておる様に、何というても、一番有難いところはここだと私は、何時も感じさせて貰うです。あちらに尋ねて参りました、あの田川郡の金田という所の教会の息子さんでした。
丁度末永さんと一緒に、同じ部屋に修行しておるんです。それがその椛目というところが有難いということを、末永さんから聞いてるんですね。とにかく椛目のお広前が立派なお広前でもないけれどね、この此処のことですよね、障子を開けて入った途端にですね、もう清まるて椛目に行くと一辺に有難いと。神様に向かう心がもう、障子を開けた途端に出来るという様なことを、末永さんが言うておりましたがです。
それはどういう様なことのせいでしょうかという様な質問をするんです。それで私共が、御本部参拝させて頂いてから、同じ様なものを感じる。それと同じであって、そこにはそういう例えば、ここで私が今も申します様に、何処が有難いの何のと申しましても、一番有難いのは、私にとっ、ここ以外にないということです。ということは、ほんなら朝の私が、一時間なら一時間の、みっちり御祈念さして貰うでしょう。
一時間十五分です。もうこれは毎日大体その時間。一時間と十五分間だけは、御神前に、私がずうっとこう、いわゆる神様と御霊様と通い続けて一時間半です。その有難いという心でそのまま私がもってきて、いわば七時間それをじっといわば育てていくために精進するわけなんです。十二時迄一時間ですから。ですからそういう精進はですね、何処へおっても出来ることじゃないです。
やはりここなんです。私にとってここがだから一番有難い、その一番有難いというものをこうやって、その醸して行くとでも申しましょうかね。作っていく事に一生懸命になっておる、その、有難いという雰囲気が、目には見えないけれども、障子を開けた途端に、なんとはなしに、それが、六根清浄、心の中に祓いを受けた様な気持ちがするのは、そのことなんです。
今度この四月に卒業ですから、一番に椛目のお広前にお引き寄せを頂いてから、御教導頂きたいと言うてから、まあ言うておられましたけれどもです。そういうものが確かに椛目のお広前にあるのです。それは出来んなりにも私が一生懸命、ここで有難くならせて頂くということの元は今も申します様に、御祈念から始まっとるです。そして只今申します様に、何日かその、疲れに疲れきっとるのでございますけれどもです。
昨日なんかは、私はかえってもちろん小倉の田中さんとこに寄って、一時間正味いうたら一時間無いくらいに、あちらで休ませて頂きました。汽車の中でも私は皆さんが何時も、ご承知の様に、長い台を作って、そこに何時も寝てくるのが普通ですけれども。もう久富さんも、高橋さんも疲れてございますから、それで、私が、半分の時間は、あぁた方はそこでいて下さい。
私や、やっぱ腰掛けたがよかけんでち言うてから休んできたんです。今度はそげんであってから、疲れていないのです。それでも三日間それこそ寝るか寝らん様にしてきておって、おかげ頂いてるんです。ですから眠くないと言うのは不思議なくらいですけれども、やっぱ眠たいのです。も今朝なんかでも本当に眠かったです。ところがさぁ御神前に額ずかせて頂いて、神様と交流し出したらですね。
通い出したらもう眠さもなからなければ、寒さもないというものなんです。そういうところに、例えば祈りという事が大事であるかということが分かりますが、皆さんでもです。そういう祈りの出来れる稽古を、一生懸命なさらにゃいけません。お家でも休まれる前に、時間があるならです。もうお風呂にでも入って、体心を清めさせて頂いた後をです、御神前に額ずかせて頂いて、ずうっと御祈念をさして貰うです。
十分は二十分、二十分は三十分、自分で時間を多くしていけれる。然もその座っとる時間が、三十分を感じさせない様な、時間を感じさせない様な、気持ちにならさせて頂く、その心をです、育てていくことが信心だということ。ところがその心が我情我欲のために、様々なことに煩わされますからです。それが何時の間にか散漫になってしまうのです。ですからとてもとても、お道の信心させて頂きよったらですね。
日参させて頂かなければ、本当言うたら、おられんですね。それがもし続けられる人は別ですよ。ですからそういう人はお参りでも出来ない熱心な人、そしておかげ頂ける人はです。必ずといって良いほど、もう長い長い御祈念をしておることだけは間違いないです。お家で。そしてその長い長い御祈念をさして頂いておるうちに頂くところの、その有難い心というものを、その日一日出来るだけ、それを育てていこう。
この心で今日一日を過ごさせて頂こうという様な、精進をしておる人に違いございませんです。ですから皆さん祈りというものは、そんな様に大事にしなければいけんです。だから、ここだけではありません。もう、お家に帰られたらなおさらのこと、いわゆる御神前に埃どんがしておる様なことであっては、その神様に向こうて、神様と交流し出すはずはありません。
お榊が枯れあがっておってとても私は、おかげの頂けると言う筈はないと、まあ普通の凡夫であります私達であるならばです。それを超越した慎重になれればそれは知りませんよ。けれども私共ではやはり向かわしてもらうその神様の前にですね。こちらが生々と向かわして頂く為にも御神前には、嫌が上にも清らかないわば雰囲気を作って、そして心ゆくまでの御祈念の出来る様な雰囲気を作らして頂く努力がいると思います。
そしてその心をです。一日中持ち続けれる精進、それを今日私は信心生活だと申しましたですね。信心生活も様々ですけれどもございますですよね説明は。けれども私はこの有難いという心をです、もう出来るだけこれをいよいよ有難いものにしていこうとする精進、又はこの有難いものを消やしちゃならないと思うその精進。そういう私は心掛けをもって生活させて頂くことが、信心生活だという風に感じるです。
どうぞ。